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                 緒言

 

「おもろさうし」の作者の大部分は、憑依(ひょうい)したシャーマンだと私は思います。シャーマンと申しましても男ではなく、沖縄に関して言えばすべてが女性だと断言してもいいと思います。神がかり状態の女性が作った歌が大部分をしめる「おもろさうし」は世界的にも非常にめずらしい極めて特殊な文学です。冒頭の歌、「聞得大君が、降りて遊び給えば」とあるように、降りるとは神が地上に降りてくることです。せっかく降りてくるのですから我々の前にその姿を見せて頂ければたいへんありがたいのですが、なぜか神様はそうはなさらないようです。シャーマンと呼ばれる女性に依り憑(つ)いて、その女性を通してみずからの言葉を語るのだそうです。沖縄の人々はそれを昔からずっと信じてきたようですし、今も信じている人が多数いるようです。沖縄のシャーマンはユタまたはノロと呼ばれ、現在もしっかりと存在します。おもろさうしは、繰り返しが多く、決まり文句も多数あり、俗語・日常語も登場し、文学としては稚拙なところがあるかもしれません。しかしながら、おもろさうしは人を通して語られた神の言葉であるというのが昔の人々の気持ちのようです。私は幼い時におもろさうしの朗唱を聞いた経験があります。私の原体験です。全く意味がわからず、これが神の言葉なのかと感動しました。後年、本文を読むと、まぎれもない琉球語でした。ネイティブとして理解できました。私にはなんとか理解できますが、今のほとんどの沖縄の人々にとってはそうではないようです。英語に訳すよりもまず日本語に訳すのが先だと思いましたが、私は並行して交互に訳しました。英語に訳して気づきましたことは、おもろはすべてが現在形で語られている感じがするということです。過去の事でも現在の事として語られているようです。また英語に訳す時には主語が必要ですが、おもろの場合、語っている人でさえ主語が誰なのかをそれほど意識してはいないようです。というよりも、この世のすべての出来事は神が人間を通して行うことです。したがって、すべての主語は神であっても全然差し支えないわけです。再び冒頭の歌、「聞得大君が、降りて遊び給えば、天の下、平らげてください」は、降りて遊ぶのは聞得大君のように思われますが、どうも降りて遊ぶのは神様のようです。そしてまた天の下を平らげるのも神様のようです。英訳の場合は出来るだけ主語を付け加えましたが、最終的に主語が何であるかは読む人の想像にまかせていいものとします。さて「おもろ」とはどういう意味でしょうか。「思う」というよりも「語る」というほうがいいと思います。思うのは神様であり、語るのは人間だからです。 

 

 次に私の現代日本語訳の特色について説明します。おもろにはすべての歌に曲があり、曲とともに朗唱されていたようです。おもろ学者の伊波普猷は「おもろには独特のリズムがあり、それを口語に訳すとその荘重さが失われてしまう。」と語っています。どうすればリズムと荘重さを失わずに日本語に訳すことができるのか。それは各行の音数にあると私は思いました。したがって日本語に訳す場合、各行の音数を変えずに訳しました。つまり、原文と日本語訳をすべてひらがなにした場合、すべての行のひらがなの数は一致しているはずです。もちろん多少の字余り、字足らずはありますが、原則的にそれを貫きました。ために日本語訳でもおもろのリズムと荘重さは伝わっていると思います。仮にいま、おもろの原文と私の日本語訳を同じ曲にのせて歌った場合、ほとんど問題なく朗唱できるはずだと思います。音数を合わせるために、意味が不鮮明になる場合があります。また多少の文語を使わざるを得ません。おもろの助詞、助動詞は現代日本語よりも豊かですので、原文の意味をどうしても伝えることができない場合がありました。敬語法につきましても、うまく表現できないことが多々ありました。意味を漢字で表し、音を琉球語にした場合が多くあります。例えば、海果国で「みるや」、太陽神で「てるかわ」等。次におもろさうしには、未だに100前後の未詳語があります。私はすべての未詳語に意味を与えることにしました。すべての未詳語に意味を与えなければ、その部分が空白になってしまいます。前記の原則通り、本文と日本語訳の音数が一緒なのですから、未詳語に意味を与えなければその部分が空白にならざるを得ないからです。またすべての地名・人名を漢字に直しました。ひらがな、カタカナで表記した場合、どうしてもイメージが湧きません。漢字に直すとかなの場合よりはるかに想像が羽ばたきます。また、小学館の「日本国語大辞典」全20巻にも載っていない造語を作りました。憑依した女性をあらわす、「さしふ」と「むつき」です。そのような言葉は日本語にはありません。しかも訳した場合、三音でなければなりません。私は「()()」、「()()」という言葉をつくりました。三音です。その他辞典には載っていない単語がいくつかあるとおもいます。おもろさうしは複数の筆記者により採集されたため、重複する歌がかなりあります。全く同じではなくほとんど同じ歌であるというのもあります。この日本語訳では、それらの重複する歌をすべて省略しました。番号が飛ぶ場合それに相当します。ために実際の歌の数は1250ほどになります。私の現代語訳の最大の特色として、漢字すべてにルビを振ることにしました。理由は三つあります。一つ目は前記のようにおもろには独特のリズムがあります。読んでいる途中でこの漢字は何と読むのか迷った瞬間にリズムが失われてしまいます。二つ目はどの巻のどの部分から読んでも大丈夫なようにしました。大体においてルビは最初から読むことが前提です。最初の部分にルビが振ってあっても、途中から読んだ場合ルビがないと困ります。三つ目は小学校の低学年からでもおもろを読んで頂きたいからです。意味はわからなくてもとりあえず読めさえすれば、意味はあとから必ずついてくるものだと思います。言葉というものは本来そういうものだと思います。そして何よりもどの漢字にルビを振るかの基準がありません。わたしには簡単に読めても他の人には読めないということはしばしばです。もう一つ付け加えれば、最初の段階では、ほぼ五分の一程度にルビを振っておりました。ところがあとから読み直すとこれは何と読むのか私自身でさえ戸惑うことがたびたびでした。以上の理由からすべての漢字にルビを振りました。もしルビが振られていない漢字があればそれはただ単に私の記入ミスです。

 

一記号と又記号について

 

おもろの各歌は、必ず「一」という文字で始まります。その後何行かを置いて「又」と言う文字がてっぺんに現れます。これは一記号と次の又記号の間の行を又記号の次に繰り返すという意味です。私は一記号、又記号のかわりに「、」を使用しました。一記号の行の最後に「、」を付け、又記号の行の最後に「、」を付けました。そのため全体の印象がかなりすっきりとなりました。

 

頻出語についての管見

 

(きこ)え」。もともとは「聞いてください。」という意味であったと思いますが、それがだんだんと枕詞のようになり、そして敬称のように使われたようです。「聞こえ」ではなく、「聞え」。「きこえ大君」の場合は「聞得」と表記します。

 

「按司」。「あんじ」または「あじ」と読むようです。第一巻では原文で「あんし」と表記され、それが第二巻目では「あち」と表記されています。以後「あんし」または「あち」と表記され、仲原善忠によればこの表記が混同されることはなく、「あんち」とか、「あし」とか表記されることはないそうです。語源は未だに不明だそうです。混乱を避けるために私の訳ではすべて「あんじ」と表記しました。

 

「あんじおそい」。外間守善は「按司添い」または「按司襲い」と表記しています。「添い」で「おそい」とはかなり不自然で、せめて「御添い」とすべきだと思います。また、漢字の「襲」には、「官職や家督を受け継ぐ」という意味があり、春秋左氏伝にもその意味で使われている部分が見えますが、日本語の「おそう」がその意味で使われるのは明治になってからです。「按司添い」、「按司襲い」は、按司のそばに使えるもの、按司の後を継ぐものというイメージがあります。おもろを読んでいる限り、「あんじおそい」は按司そのものをさすものと思います。私見になりますが、「おそい」は「大主」(おおす)が変化したものだと思います。最後の「い」が気になりますが、「きこえおおきみ」、「あんじおそい」はおもろではペアで現れる言葉です。最後の「い」は音調を合わせるために朗唱の際に付加されたものと私は思います。したがって「あんじおそい」は「按司大主」と表記することにしました。たぶん実際の発音は「anji uusui」であったと思います。聞得大君の発音は、「chikwii uukimi」で、発音上,音数が一致します。

 

「君」。おもろに登場する場合には必ず「シャーマン」のことです。

 

「太陽」。おもろの場合、必ず「てだ」と読み、「たいよう」と読むことはありません。「てだ」は太陽の様に光輝くものから「国王」、「按司」などを指す言葉ともなりました。

 

「精」。「せじ」、「せい」、「せ」と読み、神がシャーマンに与える霊力の事です。

 

「モリ」と「グスク」。この現代語訳ではこの2語のみをカタカナで表記しました。理由はこれに相当する漢字がどうしても見つからないからです。この2語はおもろさうしのいたるところにあらわれ、琉球文化、琉球人にとってはとても大切な言葉ですが、端的に表現することがきわめてむずかしい言葉です。私の解釈では、神がこの世に降りてくる場合、どこにでも降りてくるのではなく、ある程度のランドマークとなる場所があって、それが、モリ、あるいはグスクではないかと思います。モリはうっそうと茂った木々の有る場所で、グスクはある程度盛り上がった小山をさすのではないかと思います。この二つがいっしょになったのがモリグスクだと思います。

 

「庭」。この言葉もおもろのいたるところにあらわれます。原文「みや」に漢字の「庭」の字をあてましたが、いわゆる草木が植えられている場所ではなく、神事を行う広場をさします。もしかすると、「宮」の漢字をあててもいいかもしれませんが、宮では神社のイメージがつきまといますので、おもろらしく庭の漢字をあてたほうがいいと思います。モリ、グスク同様カタカナ表記でもよかったかもしれません。同様に御嶽もオタケまたはウタキと表記した方がむしろ良かったかもしれません。つまり漢字では表現できない沖縄独特の言葉がおもろにはたくさんあるということです、

 

難解な歌について。

(1046)の最後の行、原文では、 

 

たかさう、すさはのはな、あいはる (校本おもろさうし 仲原善忠、外間守善編)

 

これがどうしても訳せません。多分に聞き間違いの上に書き間違いのダブルミスがあったものと推察されます。万葉集第一巻の九番目、額田王の歌を連想します。空白にしようかとも思いましたが、適当な日本語をあてはめて体裁を整えることに致しました。申し訳ありません。

 

翻訳にあたり特に以下の書を参考に致しました。明記して筆者に深く感謝申し上げます。

 

平凡社 伊波普猷全集11巻 角川書店 校本おもろさうし、総索引・辞典おもろさうし

岩波書店 日本思想体系第18巻「おもろさうし」

岩波文庫 おもろさうし上下(この翻訳の配列はすべてこの岩波文庫本に従いました。)